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故 五郎丸 清春 遺作展
〜 その序曲 〜

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ごあいさつ

 本日は、ご多用中にもかかわらず、『故 五郎丸 清春 遺作展 〜その序曲〜』へお越しくださいまして、真に有難うございます。

 『不本意』とは、その、わざわざお足を運んでいただいた皆様方に対し、大変失礼な言葉であると存じます。この『村岡屋・新天町ギャラリー』は、昨年度秋に、私が生前の父へ、自分自身の精一杯を訴えかける目的で探したはずの展示会場でした。

 重篤な病に倒れ、ベッド上で寝たきりの生活を余儀なくされ、瞳を開ける時間も極端に減り、好きだった教育テレビも点けず、何が人生の喜びであるのか?掬い終えた釜の底から、米粒(幸せ)の片鱗をひとつひとつ拾いあげるかの状況下では、この私とて、為す術を失いつつありました。

 運命の悪戯でしょう、病室にぽつりと舞った、そんなか細い願いも想い出と化し、この遺作展へ辿り着いたわけですが、私はその過程において、ひとつの衝動に駆られています。

 これまで、日展へ出品する大作を中心に父の画業を見てきた私であり、埃かぶる、その奥に隠された小作を、ようやくこの機に紐解いたのですが、それら風景、静物、人物等々の画に感じられる空気観は、先の何よりも優り軽やかに、勢い強く、賢く、尊影で、幾重もの歳月を経てなお踊り続ける、まさに『生命』そのものでした。

 緊張づくめのフィギュアスケート選手権本試合よりも、そのあとのエキジビジョンを観ているほうがよほど人間らしいと常日頃から考える私にとって、ほこりまみれの父の遺作とは、海底に沈んだ海賊船の中で、永遠に輝き続ける宝物のように思えてなりません。

 かのピカソは、「芸術とは、小鳥のさえずりのようなものだよ」と言ったそうです。そこには、審査員に対する遠慮も世辞も無い。最高点も最低点も無い。師に卑屈になることも、ぶつかることも無い。腹が減ったら餌を啄ばみ、雲に逢いたくなったら空高く飛ぶ。気ままに唄い、気ままに寝る。自由奔放さが、ある。

 どうぞ、心ゆくまで、お愉しみください…

2011年 清春

       Atelier Kaii

            五郎丸 塊維



サンデー・いんたびゅう

毎日新聞 1978年(昭和53年)8月6日(日曜日) 掲載記事

母の愛と"なにくそ魂"

ユニークな画風で
人気上昇中の示現会会員
五郎丸 清春さん(53)


【写真】アトリエで大作に取り組む五郎丸清春さん


 これまでに三度、死に直面、どん底の生活を繰り返しながら絵筆だけは捨てなかった。この"なにくそ魂"が、この人の生活信条だ。この世界は、一流にならない限り絵だけではとても食ってはいけないといわれる。五郎丸さんは絵で食っている数少ない一人だ。自分自身の努力もさることながら「ここまでこれたのは母親の愛情があったからこそ」が、この人の口ぐせ。現在は福岡市南区長住三の二の二六の自宅アトリエで絵画教室を開いて子供たちに絵の指導をしながら、ヌードばかりを十二年余も描き続けている。また、妻の千恵子さん(光風会会員)も絵を描き、近く三回目の夫妻の「二人展」を開くため、そろって大作に取り組んでいる。

―絵に興味を持つようになったのは?
 「父親が建設業をしていた関係で、職人さんがたくさんいた。その中にバイオリンを弾き夜は絵を描く人がいて、子供心に自分もなろうと思った。三、四歳のころと思います」

―好きだけではダメでしょう。やはり素質が。
 「図面を見よう見まねで書いていたところ、絵心があると大変ほめられた。それが絵を志す大きなきっかけになったような気がする」

―小さいときに苦労されたと聞きましたが、具体的にはどんな?
 「家庭は経済的には普通だったが、小学校二年のとき、仕事中に父親が両眼失明寸前の大ケガをして働けなくなり、家庭はたちまち苦境に陥った(母親は日雇い労働、五郎丸少年は、ゲタをつくり、それをリヤカーで引いて売り歩いた)。しかし、母親はグチ一つこぼさず、けなげに働き続け"人には絶対負けてはいけない。絵が好きなら最後までやり通せ"と励ましてくれた」

―子供のころは絵の勉強はどのような方法で?
 「絵でメシを食おうと決心したのは十二歳のころ。新聞広告を見て、通信教育を受けた。当時すでに有名だったさし絵の岩田専太郎、小林秀恒両氏にほめられ、天にも昇るような気持ちになったことを、いまでもはっきり覚えている」(このころ食事の時間も忘れて絵を描き、栄養失調に)

  ≪その後、母親の勧めもあって十八歳で上京、日本画家の竹内秋峰画伯に弟子入り、五年間修行するも、戦後の食糧難もあって、胸を患い、挫折感を≫

―志を立てて上京しても、目的通りにはいかず、苦しみから逃げ出す人が多いわけですがいかがでしたか。
 「惨たんたるものでした。街頭紙芝居をやって、なんとか食べていける状態。連日の過労がたたって、胸を患い、ついにダウン。本当に死を覚悟しました。そのころ、郷里の母親が落ち穂を拾い集めては、精米機にかけ、貴重な米を送り続けてくれた。このお陰で、命がつながったようなものです。その後、母親は亡くなったが、臨終には間に合わず、遺体にしがみついて泣いた。そのときの冷たさが今でもはっきりと……」

  ≪母の死をきっかけに福岡に帰り、売れない絵を描く生活が十二、三年続き、胃腸障害で入院、病床生活を続けながら根性で描きあげた油絵が、昭和三十八年日展に入選したのをはじめ全九州朝日賞コンクール・ヨーロッパ留学賞選定、西日本美術展準賞、示現会展入賞、日本美術会奨励賞などを受賞、脚光を浴びる≫

―ヌードを十二年間描き続けているそうですが?
 「人に指導するのではなく、自分の勉強も含めて。絵はデッサンが大切。コスチュームの下にボディーがないような絵は、感動を与えない」

―子供たちを指導されていて、現代っ子たちの特徴は?
 「色彩感覚は豊かになってきているが、何が何でもやり通すといった熱意が足りない。カーンといったら、カーンと応えるファイトがほしい。しかし、これまで、たくさんの子供たちを教えているが、悲しいかな、そんな子には一人も出合わない」

―最近とくに人気が出ているようですが、これからの目標といったものを。
 「最大の悩みは健康との闘い。これからも歯を食いしばってよい絵を描き、いまは亡き母親にささげたい。そうすることが自分を失わないことにつながっていくから」
(村上)

『望郷千里』
五郎丸 塊維 画
F6号・カンヴァス・油彩

※清春の母・シナは、上京した我が子へ玉子を送るために、
今か今かと、鶏の尻に手を添えて待つほどであったという



 この度の、父・五郎丸清春の遺作展では、大作を1点だけに止め、3〜10号の、油彩小品をメインに展示いたしました。会場の大きさから、展示可能な作品数は30点ほどに限られた訳ですが、それゆえ作品選考には頭を悩ませ、まさに断腸の思いで決別した作品も、数多くございました。

 絵描きとは、これほどまでに試行錯誤を繰り返すのかと驚かされた、西公園の藤棚の下で描かれる博多港シリーズ。ペインティングナイフで油絵具を大胆に盛上げた花々、波しぶき、人体…それらのどれをとっても、生つばを呑まずには観ていられないほどの印象であったことを、遺作の埃を掃った私は、今でもはっきりと覚えています。

 そういった経緯もあり、今回展示できなかった作品を中心とした遺作ポスターを1種、また展示品を中心としたポストカードを8種、遺作展会場にて販売をいたしました。ご来場の皆さま方には、ご好評をいただき、亡き父の作品を愛してくださる方がこれほどまでにおられるのかと、いたく感激を覚えた次第です。

 このサイト内の、創作品販売コーナー『Web Gallery』でも、引続きそれらの品々を販売致しますので、今回、ご多忙にてご来場いただけなかった皆さま、またプレゼント等でご購入をお考えの方々など、ぜひご利用いただければと思います。

 なお、配送の都合上、ポストカードは単品ではなく、セット販売となりますことをご理解いただければ幸いです。

 最後になりましたが、これまで、父・五郎丸清春の絵画人生を支えてくださいました多くの方々に、心より謝意を申し上げます。今後、再度遺作展を行う好機に恵まれました際には、どうぞまた、ご高覧ください。

       Atelier Kaii

            五郎丸 塊維


五郎丸清春・A2版ポスター

※著作権保護のため、見本画像には『SAMPLE』と印字しております






五郎丸清春・ポストカード
デザイン 全8種

※著作権保護のため、見本画像には『SAMPLE』と印字しております

<セット内容>
F6 恋の浦風景
F6 異国少女(仮称)
F6 花瓶の花(仮称)
F8 母子像(仮称)
F8 南公園(仮称)
F8 滞船(仮称)
F8 菊(仮称)
P100 金門屏風の傍にて


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