本日は、ご多用中にもかかわらず、『故
五郎丸 清春 遺作展 〜その序曲〜』へお越しくださいまして、真に有難うございます。
『不本意』とは、その、わざわざお足を運んでいただいた皆様方に対し、大変失礼な言葉であると存じます。この『村岡屋・新天町ギャラリー』は、昨年度秋に、私が生前の父へ、自分自身の精一杯を訴えかける目的で探したはずの展示会場でした。
重篤な病に倒れ、ベッド上で寝たきりの生活を余儀なくされ、瞳を開ける時間も極端に減り、好きだった教育テレビも点けず、何が人生の喜びであるのか?掬い終えた釜の底から、米粒(幸せ)の片鱗をひとつひとつ拾いあげるかの状況下では、この私とて、為す術を失いつつありました。
運命の悪戯でしょう、病室にぽつりと舞った、そんなか細い願いも想い出と化し、この遺作展へ辿り着いたわけですが、私はその過程において、ひとつの衝動に駆られています。
これまで、日展へ出品する大作を中心に父の画業を見てきた私であり、埃かぶる、その奥に隠された小作を、ようやくこの機に紐解いたのですが、それら風景、静物、人物等々の画に感じられる空気観は、先の何よりも優り軽やかに、勢い強く、賢く、尊影で、幾重もの歳月を経てなお踊り続ける、まさに『生命』そのものでした。
緊張づくめのフィギュアスケート選手権本試合よりも、そのあとのエキジビジョンを観ているほうがよほど人間らしいと常日頃から考える私にとって、ほこりまみれの父の遺作とは、海底に沈んだ海賊船の中で、永遠に輝き続ける宝物のように思えてなりません。
かのピカソは、「芸術とは、小鳥のさえずりのようなものだよ」と言ったそうです。そこには、審査員に対する遠慮も世辞も無い。最高点も最低点も無い。師に卑屈になることも、ぶつかることも無い。腹が減ったら餌を啄ばみ、雲に逢いたくなったら空高く飛ぶ。気ままに唄い、気ままに寝る。自由奔放さが、ある。
どうぞ、心ゆくまで、お愉しみください…
2011年 清春
Atelier Kaii
五郎丸 塊維
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